8月13日(昭和17年) 南海支隊ブナに上陸
珊瑚海海戦の結果延期されていたポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)が、大本営派遣参謀辻政信中佐の独断専行により発動される。
これにより第17軍司令官百武晴吉中将は、南海支隊長堀井富太郎少将に作戦の実施を命令。
補給の困難さを理由に本作戦に消極的であった堀井支隊長であったが、主兵力である歩兵第14連隊とともに、13日ブナに上陸。
先に上陸していた横山先遣隊(独立工兵第15連隊)とともに、オーエンスタンレー山脈越えの無謀な作戦にあたることになる。
8月11日(昭和19年) グアム島の日本軍守備隊玉砕
7月21日米軍グアム島に上陸。同島には第29師団を中心とする18500名の日本軍が守備についていたが、米軍上陸直後の最初の戦闘で戦力の大半を失い、24日にはサイパン島から出張して在島していた第31軍司令官小畑中将は大本営に決別電報を打っている。
しかし残存する部隊は抵抗を続け、8月11日の小畑中将の自決でもって、同島における組織的抵抗は終わったとされる。
8月9日(昭和20年) 長崎に原爆
テニアン島を出撃したB29ボックス・カーが「ファットマン」と名付けられたプルトニウム型原爆を投下。
時刻は11時2分。3日前の広島と同様市街は壊滅。
死者約8万人、負傷者約8万人を出した。
8月9日(昭和20年) ソ連が対日参戦
戦争の終結を模索していた日本政府は、ソ連を仲介として出来るだけ好条件での和平を望んでいた。
そのようなことなど不可能であると、駐ソ大使佐藤尚武は現地にあって冷静に認識していたが、ヤルタ会談のことなど知る由もない政府は近衛文麿を特使として派遣しようとするが、ソ連はこれを拒否。
逆にソ連はアメリカの原爆完成を知り、参戦を急いだ。
もちろん、まだ日ソ中立条約は有効期間中であったが、ソ連はこれを破棄し、9日午前零時対日参戦した。
8月8~9日(昭和17年) 第一次ソロモン海戦
8月7日アメリカ軍のガダルカナル島上陸の報を受けた第8艦隊司令長官三川軍一中将は、重巡「鳥海」・「古鷹」・「加古」・「青葉」・「衣笠」・軽巡「天龍」・「夕張」・駆逐艦「夕凪」の8隻を率いてラバウルを出撃。
8日23時40分から翌9日0時20分のわずかな時間のうちに、ガダルカナル島の北にあるサボ島を回る形で米濠艦隊と二度にわたり交戦。
米重巡「ビーンセンス」・「アストリア」・「クインシー」・濠重巡「キャンベラ」を撃沈。重巡「シカゴ」・駆逐艦2を大中破させた。
第8艦隊の損害はほとんどなく、文字通りの完勝であった。しかし、当初の目標であった敵輸送船団を攻撃しなかったことが問題とされた。
ちなみに海戦自体は完勝であったが、その後カビエンに向かう途中の10日7時15分、重巡「加古」が米潜S44の雷撃を受けて沈没している。
8月7日(昭和17年) 米軍ガダルカナル島に上陸
空母3、戦艦1、巡洋艦14、駆逐艦31 に支援された輸送船22隻に分譲したバンデグリフト少将指揮の第1海兵師団18000名が上陸。
日本軍は警備の陸戦隊250名以外は非武装の2600名の設営隊員であり、ジャングルに後退。
米軍はほとんど完成した飛行場を、ほぼ無血占領した。
アメリカ軍の太平洋における反攻作戦の始まりであった。